糠漬けの始まりと変遷

 漬け物の歴史は古く、平安初期の延喜武には、すでに春14種、秋36種、計50種の漬け物が記されており、その中になす・しょうがの糠漬けが記録がされています。

 しかし、糠漬けが盛んになったのは、江戸時代初期の頃に唐臼による精米の方法が普及し、糠が豊富に使われるようになってからであるといわれています。

 糠が豊富になった江戸時代前期の元禄8年(1695年)本朝会鑑によると、「糠を塩と合して瓜菰魚島を淹蔵(しおづけ)して経年の貯えとする」と記され、さらに享保12年(1727年)の租税覚書の中にはふぐの糠漬けが記されています。
 また、明治19年に編纂が企画された日本水産製品誌をみると
  石川県 河豚・河豚緬・にしん・いわしの糠漬け
  福井県 日向浦のいわしの糠漬け
  宮崎県 日向国臼杵郡島野浦のいわし糠漬け
  千葉県 上総国山辺郡片見付のいわしの糠漬け
  秋田県 羽後国山本郡のコチ糠漬け
等が挙げられ、魚の糠漬けが全国津々浦々で造られていたことが窺えます。以上のようにかつては全国各地で道られていた魚の糠漬けも現在では生産地が激減し、北海道のニシンの糠漬けの他は恰も北陸地方の特産のように考えられています。

江戸時代半ばから明治にかけて日本海の海運業を担っていたのが北前船ですが、安政5年、当時の記録「加越能湊々高数等取調書」「加越能諸湊家数人数等調」によると、佐渡国より干鰒(ほしふぐ)、御国より鰒ノ子(ふぐのこ)という記述があり、当時よりふぐの卵巣の物流があったことが証明されてます。

また、加賀藩江戸屋敷に住んでいた武士の日記の一部に「藤田家へ家範を使いにやる。酒1樽とふぐのすじを送る」とあります。ふぐのすじ、とはふぐの糠漬のことで、当時からふぐの糠漬が作られていたことが分かります。

さらに加賀藩の江戸屋敷跡より、たくさんの骨に混じって、ふぐの骨も出土されています。

糠漬けの加工圏

【こんか】は、春先に多量の食塩と糠によって漬け込み、重石を置いて加圧しながら夏の土用を越いた魚の熟成食品であります。

 主として休漁時や不漁時に備えた保存食品として利用されており、この魚の糠漬けを【へしこ】と呼称しているのは、日本海沿岸の鳥取、兵庫、京都、福井県全域、また【こんか漬け】と呼称している地域は石川県全域であります。